ミジンコ

優華さんの声はドライアイスのように冷たく熱く痛かった。


「ランがいなくなっちゃったの…どっかで、見かけなかった?」


同棲中のカレシが不意に出て行ってしまったというのだ。
カレシは売れないバンドマン。
姓なのか名なのかわからないが「乱」と名乗っている。
本名ではないと思う。


切羽詰った声調ではなかったが、
この人は何かの拍子に爆発することがある。
激昂して自分より20センチ以上背の高い男を殴り飛ばしたこともあった。


「心配だとは思うけど、とにかくバカなことだけはしないで…」


「大丈夫…おなかに大事なやつがいるから」


バンドマンと知り合うまでは、一番好きなものはミジンコだった。
水槽で何匹ものミジンコを育てていて、
それぞれに素敵で不気味な名前をつけていた。
ドドメちゃん、キメランちゃん、ヌメメちゃん…


優華さんの部屋で僕もいしょに水槽の前に腰を下ろして、
小さくて透明で可愛いやつらを何十分も何時間も眺めていたものだった。


その貴重な時間を奪ったのがバンドマンの乱だったのだが、
別に彼を恨む気は起こらなかった。
優華さんとはどういうわけか、どうしても、
友達以上あるいは友達以前の関係にはなれなかったからだ。


バンドマンは間もなくすると、優華さんの胎内にもミジンコを呼び込んだ。


「女の子だったら、ミジンコって名前にするの」


「それはやめたほうがいいと思うな、ミジンコは好きだけど…」


「どうして?」


「なんだか、いじめられそうな…」


「だって、いい名前じゃない。
漢字だとね、未来の未に無尽蔵の尽に子供の子。
いまだ尽きず…持っているものがね。
才能とか若さとか美しさとか…」


大事な大好きなミジンコがおなかの中にいる限り、
優華さんは決して無茶をしたりはしないだろうと思った。


そのあと、二言三言交わすと、優華さんは電話を切った。
パソコンのディスプレイの傍らに、僕も携帯を置く。
夜中の3時だった。


翌日、やっぱりちょっと心配だったので、
昼過ぎに優華さんの携帯に電話を入れてみた。
何度かけても出ない。
留守電にメッセージを入れておいたが、
夜10時を回っても返事は来なかった。


その翌日、彼女の部屋を訪ねてみたが不在だった。
子供ではないのだから、まあ、2、3日行方知れずになったところで、
騒ぐこともあるまい。


高をくくっているうちに、1週間が過ぎた。
さすがに不安になって、優華さんのお姉さんを訪ねた。
駅前の花屋さんで働いている。
優華さんより少し小柄で、
目鼻立ちも優華さんに比べるとこじんまりとしている。
骨格は、しかし、紛れも無く姉妹であることをどこかに刻印していた。


「ユウちゃんのことだから、たぶん心配ないと思う。
学生の頃からよくあったの、突然消えて何週間も戻らないようなことが」


「僕もそう思うんですけど、ただ、今は…
ご存知ですよね?赤ちゃんの話…」


「赤ちゃんって?」


「えっ、お聞きになってないんですか?
乱さんの子がおなかに…」


「ないない、それは絶対ない、奇跡でも起こらない限りはね。
あなたはたぶん知らないと思うけど、
ユウちゃんの本当の名前はユウジって言うの。
漢字では、勇ましいに数字の二。
誰よりも大事な、あたしの可愛い弟…」