輪亀

パトカー、消防車、覆面パトカー…なんだ、なんだ?
夜8時を回っていた。
物騒な車たちがマンションを静かに囲んでいた。
何か事件があったのだろうか。


訊いてみようと人を探したが誰もいない。
野次馬どころか、車の中を除けば誰一人見当たらない。
いったん自分の部屋に戻ることにする。


9時ごろにまた下に降りてみたら、
物騒な連中はもう影も形も無かった。
玄関にただひとり、2階のTさんの奥さんが、
青ざめた顔をして、ぼんやり立っていた。
事情を訊くと、他人事のように答えた…


Tさんの女子高生の娘が、
5階から飛び降りようとしたという。
今は落ち着いて部屋にいるが、
母親の顔を見たくないと言うので、
父親にあとを任せて出てきたのだ…と。


Tさんとも娘さんのサリナさんとも、
特に親しいわけではない。
サリナさんの事情も家庭の事情もよくは知らない。


ただ、サリナさんが小学6年生のとき僕は、
ぼろぼろになって死にかけていた子猫を一緒に保護した。
サリナさんは親の反対を押し切って、面倒を見ることにした。
魂と書いてタマと読む雌猫は、今も彼女の家にいる。
いや、詳しいことは知らないが、いるはずなのだ。


その後は挨拶を交わすくらいの接触しかない。
サリナさんも僕も、無口でシャイな人種だからだ。


サリナさんのことも気になったが、それより何より、
母親の腑抜けたような悲しそうな顔が、目に焼きついて離れなかった。
あれこれ気になって、まともに眠れないまま、午前4時を過ぎた。


眠ることはあきらめて、2階のTさんの部屋に灯りがついているか、
外から確認することにする。


6階からエレベーターに乗ろうとしたら、
エレベータはー1階から上がってきて2階で止まった。
そしてまた降りていった。


間違いなくサリナさんのような気がした。
そして実際、間違いではなかった。


非常階段の踊り場から下を見ると、
マンションの入り口から、サリナさんが出ていくところだった。
エレベーターと階段では、どちらが早く下りられるのか判らなかったが、
気分で階段を選び、駆け下りた。


彼女はゆっくりゆっくり歩いていた。
10メートルくらい後から、意識の中では逃げも隠れもせず、
堂々と自分のペースで歩くつもりで、ついていった。
それで万一気がつかれたら、朝の散歩だとでも言えばよい。
こっそり尾行するよりも、そのほうが自然だ。
彼女とは日ごろ、めったに顔を合わせないのだから。


公園に入った。
「樫の木通り」と名のついた、ほの暗い通りだった。
今の季節はその時間でも、けっこう明るくなっていたのだが、
通りに入ったとたん、彼女を見失った。
それでも、しかし、あせりはあまりなかった。


確証があるわけではないのだが、
彼女は決して危ういことはしないだろうという気がしていた。
本当に死ぬ気があったら、騒ぎなど起こさなかったろうし、
マンションは7階まであるのに、わざわざ5階を選んだのも、
何か理由があったのだろう。
本人なりに考えた末の行動とすれば、
意外に冷静だったのではなかろうか。


右前方の樫の木の樹皮が、蠢いたような気がした。
その部分がわずかに盛り上がっている。
近づいて確かめると、亀だった。
ワカメだ。


検索しても図書館で調べても、そんな名前の亀は見つからないが、
地元の人たちはみなそう呼んでいた。
漢字で書けばたぶん、輪亀もしくは環亀だろう。
甲羅の部分がドーナツ状になっていて、胴体に虚無を宿しているのだ。
めったに見かけない珍しい亀なのだが、
最近ちょくちょく遭遇するのだった。


そのとき、どこからか、私鉄の始発の警笛が聞こえた。
輪亀の鳴き声だったのかもしれない。