おろしゃ大黒

ロシアの黒パンを齧っていると、電話がハラショーと叫んだ。
朝っぱらから、なんじゃらほい。


「はひ、もごもごでふが…」


パンが口の中に残っていて、うまくしゃべれない。


「お世話になっております、第八生命の金座です。
朝早く失礼いたします。
きょうの午前中はお時間いただけないでしょうか?
震災の関係で規約が変更になりまして、
ご承認の判をいただきたいんです。
お時間はかかりませんから…」


先延ばしすると、会うのがますます億劫になりそうなので、
急ぎの仕事はあったが、10時ごろに来てもらうことにした。


インターホンが到着を告げ、玄関で控えていると、
いつもの金座さんがやってきた。
いつもの金座さんだが、きょうは3人だった。
顔ばかりか服装もおんなじだ。


3人が一斉に書類を差し出して、ユニゾンで言う。


「どれも同じですから、どれを選んでくださってもかまいませんけど、
ひとつだけ危ないのがありますので、注意してくださいね」


「危ないって?」


「お客様が受け取ったとたん、消えてしまうんです」


「消えてしまう?」


「書類はもちろんのこと、契約そのものも消えてしまいます。
当然ながら、今まで払い込んでくださったお金なども…」


掛け捨てに近い保険ではあったが、
けっこうな金額を払っているはずだ。
それがゼロになってしまってはたまらない。


見た目は何一つ変わらないのだから結局は、
勘に頼るしかないのだが、慎重に3人と3組の書類を観察して、
選んだのは右端だった。


書類を受け取る。
普通の紙の感触。
消滅はしなかった。


住所氏名などを書き込んで捺印して、無事手続きが終わった。


仕事に戻ろうとすると、すぐにまたインターホン。
今度は玄関ホールではなく、部屋の外からだった。


「あっ、すいません。
302号室のオオグロです。
ご挨拶にあがりました」


302は長い間、空室になっていた。
やっと人が入ったのか…


それにしても、同じ階でも、直下でもないのに、
わざわざ挨拶に来てくださるなんて、殊勝なお方もいるものだ。
僕の部屋は6階の隅なのだ。


ドアを開けると、赤い大黒頭巾をかぶった、
小太りのおじいさんが立っていた。
おじいさんと言ったが、よく見ると案外、若いような気もする。
60前後か。
あるいは、血気盛んな90代?


玄関が物だらけで手狭なので、廊下に出ると、
オオグロさんは4人いることがわかった。


「ご家族は4人だけですか?」


「いえ、家族は私が4人です。
よろしくお願いします。
つまらないものですが、こちらを…」


白い大黒頭巾と同じ色のよだれかけをセットにして、
白い紙の帯で括ったもので、帯には墨で、
「302 大黒」としたためてある。


「どれも同じですから、どれを選んでくださってもかまいませんけど…」
(ユニゾン


「あるひとつを選ぶと消えてしまうとか…?」


「いえ、消えはしませんが…いや、まあ、考えようによっては、
消えるかもしれません。
つまり、あなたの周りの人から見れば、あなたが消えてしまうのです」
(ソロ)


「ああ、僕が消されちゃうということですね?」


「まあ、そんなところです」
(ソロ)


ここしばらく、生きること自体が、何よりのストレスだった。
消えてしまうのもよかろうと思っていたから、
ちょうどいいチャンスかもしれない。


今度は4人の中で、一番左の大黒さんの手から、手土産を受け取った。


「命中です。
おめでとうと言うべきか、ご愁傷様というべきか…」
(ユニゾン


言われるままに、白いよだれかけを着け、白い大黒頭巾をかぶると、
大黒さんは、よいしょっと、それでいて軽々と、僕を背負った。


「さあ、参りましょうか。
消えるんです」
(ソロ)