つけまつたけ

隣接するマンションが数日前から足場に囲まれている。
外装だけいじるらしい。


きょうも朝から作業員たちは高歌放吟、
人目も人耳も憚らずエロ話を撒き散らしている。


仕事にならないので出かけたい気分だが、
過敏性腸症候群が足をひっぱって行かせてくれない。


インターホンが鳴った。
つい先日からモニター付きのものに替わっていた。
脱肛さんだ。


「おばあちゃんのところに、
ゴマクッキーを届けに行くところなの。
いっしょに行かない?」


脱肛さんは、手嶌葵さんが歌うようにしゃべる。


脱肛というのは、苗字なのか名前なのか、
本名なのか渾名なのかわからない。
みんながそう呼んでいて、本人も嫌がらなくて、
嫌がらないどころか自らそう名乗って、
署名もそうなっているのだ。
深く追求する人は誰もいないし、
本人も何も説明はしない。


石原さとみさんを、もっと小柄で華奢にしたような、
チャーミングな女性だ。


「初めて焼いてみたんだけど、とてもおいしかったの。
おばあちゃん、ゴマもクッキーも大好きだから」


赤い頭巾をかぶっている。


「あかずきんちゃんかと思ったよ」


「これね、クールマフラー」


「わかった、工事がうるさくてたまらないから行くよ。
用意できるまで、部屋来る?」


「ここで待ってる」


脱肛さんとは近所の公園で知り合った。
独りで読書をしていることが多かったが、
時折おばあさんといっしょだった。


ドイツ人と結婚して長くドイツに住んでいたというおばあさんなのだ。
未亡人となって数年前に帰国した。
おしゃれで話し好きのおばあさんが、僕は大好きだった。


おばあさんの家も脱肛さんの家も僕は知らない。


脱肛さんの顔を見たら、腹痛も少し楽になったので、
さっと着替えをして1階に下りた。


「何これ、草間彌生?」


隣接マンションの前を通るとき、
脱肛さんが大仰な喚声を上げた。


なぜか建物の下のほうの壁が、
黄色地に赤の水玉模様に塗り換わっているのだった。
隣のマンションの住民の中では比較的親しい間柄の加藤さんに、
昨日聞いた話では、あれはあくまで下地で、
できあがりは元通りの色になるとのことだった。


自分のマンションの玄関から歩いて13秒のバス停で、
東急バスのどこ行きだか知らないやつに乗る。
面倒臭いので何もかも脱肛さんにお任せなのだ。
運賃は自分で払ったが、PASMOで精算した。


進行方向右手に等々力緑地が見えたなと思ってから、
しばらくぼうっと運転手の後頭を眺めているうちに、
脱肛さんから下車するように促された。


道路の左側を歩いていくと右手に、
レッサーパンダのような猫の看板が見える。
動物病院だった。


そこの脇道に入って、坂を上っていった。
まっすぐな坂道だが、けっこう長かった。
両側は中途半端に古い住宅街。


坂を上りきると、これまた中途半端にノスタルジックな、
古い病院のような白っぽい洋館があった。


玄関のドア脇に取り付けられた赤い普通の郵便受け。
白い横長の紙に黒いマジックで「つけまつたけ」と書いたものが、
表札代わりに貼り付けてあった。


「どういう意味、『つけまつたけ』って?」


「おばあちゃんが自分で書いたの。
いい字でしょう?
何度か訊いてみたんだけど、本人にもわからないみたい。
何しろ、まだらボケだから。
ドイツに行ってたという話も、どうなんだか…」


「でも、本当のおばあさんだよね?」


「さあ…」


『つけまつたけつけまつたけつけまつたけ…』


声には出さずに、何度も繰り返してみた。


「つけまつたけつけまつたけつけまつたけ…」


今度ははっきり、声に出して。


何かが変わるような気がした。
自分の中の何かが、あるいは自分の外の何かが…